2023.01.31
東京のシステムエンジニアから、
雪国のアスパラガス農家へ転身。
自分らしい幸せへの道筋を構築中
桑名洋行さん/アグリット
農園所在地:福島県喜多方市
就農年数:3年目 2020年就農
生産:アスパラガス(ふくきたる)
IT業界での行末を考えて。移住と就農の理由
雪深い福島県喜多方市でアスパラガス農園を営む桑名洋行さんは、就農して3年目。東京からこの地に移住し、2年間の研修期間を経て、2020年4月から自身の農園を営んでいる。現在はビニールハウス、露地、雨避け付き露地という3種の圃場をそれぞれ15アールずつ整備し、福島県のオリジナル品種のアスパラガス「ふくきたる」を生産している。
農業を始める前は、SEの仕事をしながら20年以上東京で暮らしていた桑名さん。IT関連企業でのSEの仕事といえば、今最もニーズがあり給与も高い人気の職業の一つだが、桑名さんが、その仕事を辞めてまで農業へ転向したのは、自身の将来を見据えてのこと。IT業界でキャリアを積みながら、交渉や調整といったヒューマンスキルは高まっていくものの、日進月歩で進化するプログラミング技術のキャッチアップを、若い世代やAIが台頭してくる中でやり続けることの限界が見えた。四季の変化を肌で感じるには人工物も人間も多すぎる東京での暮らしから、思い切って自然豊かな地方に移り住み、農業をして暮らしてみるのもいいかもしれない。いつしか桑名さんと妻の中に、漠然とではあるが、そのような未来の暮らしのイメージが浮かぶようになっていったという。
桑名さんは2015年頃から地方移住の情報収集を始めた。「雪国に住みたい」という妻の思いを発端に、雪の降り積もる地域を中心に移住先を探していく中、新規就農者の受け入れに積極的な喜多方市が心に留まった。農業を志す人への手厚い支援もあり、移住の目的として「就農」の占めるボリュームは桑名さんの中でさらに大きくなった。2017年12月、喜多方市の市営住宅の抽選に当選したのを決め手に、桑名夫妻は住み慣れた東京から、銀世界の広がる喜多方市に居を移し、新たなスタートを切った。
わざわざ東京から買いに来る、桑名さんの絶品アスパラガス
桑名さんは生産する作物をアスパラガスに絞り、研修先もアスパラガス農家を希望した。福島県がオリジナル品種「ふくきたる」を開発しているほど力を注いでおり、喜多方市のブランド野菜にも選定されていて単価が高く、軽量で比較的収穫もしやすいと見込んだからだ。
アスパラガスの収穫期は春夏秋。地下茎から随時出てくるアスパラガスを程よい大きさまで成長させ、収穫する。春や夏など、気温が高い季節は成長が著しく速く、半日で15〜20cmも伸びるため、収穫作業は1日2回と大忙しだ。逆に気温が低い季節になると伸長は遅くなり、1日1回の収穫となる。
最盛期には桑名夫妻だけでは人手が足りないので、ハローワーク等を通じてパートスタッフを2名ほど雇っている。収穫したアスパラガスは、太さやサイズごとに大まかに分け、JAの選果場へ出荷している。桑名さんの現在の出荷先の大半はJAだが、「食べチョク」などの産直プラットフォームでの販売や、友人知人の紹介でつながった顧客への直接販売も行っている。
どのように販路開拓や営業をしているのか尋ねると、現在はほとんど営業らしい営業をしていないという。桑名さんの顧客のほとんどが、リピート客なのだ。理由は何と言っても、桑名さんのつくるアスパラガスの「おいしさ」にある。
その証拠に、「食べチョク」でコメントを寄せてくれたお客様100人の内、実に98人が最高評価の星5つを付けている*。東京から喜多方市の桑名さんの農園までわざわざ買いに来るファンもいるほどだ。
*:2022年12月時点。アグリット調べ
お客様からのフィードバックが得られる直売が自信に
このおいしさの秘密は、桑名さんが研究し開発した独自の栽培方法にある。研修で基礎からアスパラガスのつくり方を教えてくれた師匠にあたる農家が、栽培方法に独自の工夫をしていたのを見習い、その手法を桑名さんなりにアレンジして、さらに進化した栽培方法を編み出した。
「ふくきたるは国内で栽培されている約50種ほどのアスパラガスの中でも、非常に太くて甘いおいしいアスパラガスです。私の栽培のポイントは、木の間隔(親茎の間隔)を広く取ること、そして堆肥の被せ方にあります。通常はアスパラガスを植え付けた畝ではなく通路部分に堆肥をやる農家が多いのですが、私は一輪車に積んだ堆肥を、そのままアスパラの上にドバッと被せます(おそらく一般的なやり方の2倍~4倍の堆肥量)。時間をかけてアスパラガスが養分を吸い込み、フカフカの堆肥が水分量も調節してくれますし、根っこを寒さから守ってくれます」
用いる堆肥は、稲刈り後のモミを玄米にするJAの施設で出る米の粕を集めて発酵させたものを分けてもらっている。つまり大きな視点で見ると、米どころでもあるこの地域の農業廃棄物をアップサイクルした循環型農業であるとも言える。こうした栽培の工夫も、元々SEだった桑名さんの改善への意欲と創造性、チャレンジ精神があればこそだろう。
そして、販路についても研修先でお世話になった師匠の影響が大きいようだ。
「師匠が作物の全てをJAに出荷しているのではなく、直売所も併設し、お客様への直送もしている農家さんだったんです。喜多方市内の一般的な農家さんとは少し違うやり方をしていましたし、そのやり方を選んだ理由も非常に参考になりました。師匠が、『消費者の声が直接聞けるのは良いぞ。直売所が無いと、自信過剰になるか、自信がなくなるかのどっちかだ』と言っていたのが、今は本当に実感できます。農業を始めてみたら思っていた以上に大変でしたし、始める前には予想もしていなかった苦労もあります。でも、私にはなぜか自信がある。それはお客さんからの『おいしい』、『今まで他所で買っていたけど、ここのアスパラガスに乗り換えます』などという、うれしいフィードバックがあるからです」
想定外のイノシシ被害にも負けず。農業とITでつくる未来
そんな桑名さんにこの先の展望を伺うと、短期的な目標と長期的なビジョンを話してくれた。
「目下の目標としては、アスパラガス栽培を採算ベースに乗せて、本当の意味で自立して経営していけるようになること。現在は次世代農業人材を育てるための自治体の補助金で支えてもらっていますが、早く独立採算に持っていきたいです」
それを阻んでいる問題は、深刻なイノシシの被害だという。桑名さんが現在の圃場でアスパラガス栽培を始める以前はいなかったイノシシが、最近は頻繁に出没するようになり、種を蒔いてから収穫できるようになるまで2〜3年はかかる生育中のアスパラガスの根をズタズタに荒らしてしまうのだ。電気柵を圃場全体に張り巡らせるには莫大な費用がかかるので、現在は電気柵とステンレス線入りの防獣ネットを併用して侵入防止を試みているが、全ては防げない。イノシシとの攻防戦で本来の栽培以外の仕事が増え、今年はアスパラガスの生産量が目標の7割ほどしか達成できなかった。だが、現在の45アールの農場でアスパラガスの生産量が本来の目標に達すれば、自分たちの収入だけで仕事も生活も成り立つようになるし、次の手も打てる。
「そのために今は踏ん張り時。農業を長く続けていくためには2つの視点あると私は考えていて、一つは自分自身を極めていく視点と、もう一つは他のスタッフも力を合わせてやっていく視点です。自分自身が頑張り抜く時期を経て、いずれは仲間と一緒にもう少しのんびりと農業をやっていきたいですね」
「私たちの世代はいわゆる“就職氷河期”で、就職がうまくいっていない人も多いんですよね。SE時代に周囲の人が仕事が原因で病んでいくのを見ましたし、今は大丈夫でもこの先、若手やAIに次第に仕事を取られていく中で、自分も含めてみんなどうやって仕事をしていくんだろうと思いました。長期的なビジョンとしては、農業をそういう人たちの働き口にしたいという思いもあります。私たちが普通に生活して、普通に幸せになれる、そのための道筋を自分自身で試しながら構築中です。まずは今の規模の経営で採算が取れるところまで行ったら、研修生の受け入れなども考えています」
そんな桑名さんが自身の農園につけた屋号は「アグリット」。「アグリ(農業)」と「IT」を融合させた名前だ。移り変わる時代の中で、自分自身の人生を意志を持って選び取り、生き抜いていくために、農業とITの力を活かす。人材の登用やIT技術の導入も視野に入れながら、確かな顧客の応援に支えられて、雪国での桑名さんの奮闘は続く。
就農を考えている人へのメッセージ
「私のように会社勤めを辞めてゼロから就農する場合は、少なくとも5年分の生活費の貯蓄があると安心です。困ったことが起こったとき、経済的な支えとなってくれます。また、事業計画を立てる際、初期費用や経費などの過去の事例のデータを鵜呑みにするのは危険だと思います。例えばその数字が、すでに他の作物を何年も生産している既存農家の場合と、ゼロから就農する場合とでは実質的な負荷やリスクがまるで違いますし、実際に農業に従事していない立場の人がそのデータを作成している場合もあります。そういう「見えない条件」には注意が必要です。今はインターネットでブログなどから実際の農家さんのリアルな声も拾えるので、そういう現実的な情報を集めたり、実際に農家さんから直接話を聞いたりして、十分にリサーチすることをお勧めします」